無職である、独身である。人生何度目かのスゴロクは始まったばかり。見ていきなせぇ笑いなせぇ。あきらめるのはまだ早い。 、、、の第二部 すっかり無職でなくなったおれっちの、右も左もわからねえ金融業界裸一貫進む様、とくとご覧あれ!
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
1回休み その3
さて約15分の交渉の末、私は件の専門医の当日の予約がすべて終わった後に無理やりねじ込んでもらえることになった。快挙である。言ってみるものである。
事務のお姉さんの
“無理です”
の一言に、はいそうですかと諦めていたら私は咳を抱えたままとぼとぼと一人泣きながら帰路についていたのだろう。そうして解決策の見当たらないまま止まらぬ咳に悩まされ続けていたに違いない。

3時間後、やっと私の診察の時間がやってきた。
やっと出会えた専門医は見事なハゲ頭に笑顔をのせて
“やあ、待たせて申し訳なかったねえ”
と言った。どうやらいい人らしい。第一にその先生は私の顔を見て話してくれる。
これまでの若い医者はパソコンの画面を見たまま私の会話をしたもんだ。失礼この上ない。
私は事の次第を包み隠さず優しいハゲ先生に語った。ハゲ先生はすでに私のカルテや各種検査結果に目を通していたらしく、ほんの数秒私の呼吸音を聞いただけで病名を断定した。すばらしい。ハゲ先生はこういった。

“わかりました。これまでの治療とは変わりますね。結構強い薬なので体調が悪くなるかもしれません。完治には時間がかかると思いますが頑張りましょう。”

私はこのとき医者の本来あるべき姿を見たような気がした。このハゲ先生はすべての医者の亀鑑とすべき人物ではなかろうか。予約がいっぱいである事実もうなずけると言うものである。
パソコンの画面を見たまま患者と話し、原因も特定できぬくせに“とりあえず”薬を処方してお茶を濁す若い医者などいなくなって欲しいと思うのは、一人私だけではあるまいと思う。

現在私はハゲ先生が処方した飲み薬2種類、貼り薬、そして吸引薬を使用している。明らかに咳は減った。ハゲ先生のおっしゃるとおり明らかに強い薬で体調はよろしくないが、私は言われたとおりきっちりと薬を飲んだり貼ったり吸引したりしている。

帰り際にハゲ先生が言った一言が、忘れられない。

“これが効かないようなら難病を疑わなければいけませんからね。”

時間はかかってもいいから、治る病気であることを切に願う。
スポンサーサイト
1回休み その2
みなさんは“紹介状”なるものをどのように書いてもらうか知っているだろうか?もしかしたらそれほど難しいものではないのかもしれない。が、これまで医者にほとんどかかったことのない私にとって“紹介状”なるものは未知なる物なのである。

さて、頼りになる友人よりいただいたリストに従って私は止まらぬ咳の原因を究明しかつ効果的な治療をするためその道の専門医を訪ねることとした。

いただいたリストをよくよく見れと、これまで通っていた大きな病院にも専門医の一人が所属していることが分かった。ここで一つの疑問がわいた。私はこれまで同病院の総合診療科、耳鼻咽喉科、そして呼吸器内科(二人)、計4人の別々の先生に診てもらってきた。相談の対象となった症状はいずれも“咳”である。そのたびに色々な検査をしては、全く原因もわからぬのに“とりあえず”と言って処方された薬を飲んできた。なぜ私のような患者をその専門医は見てくださらなかったのであろうか?

答えは専門医と知って後訪ねた日に明らかになる。

今日こそは原因だけでも知りたいとの切なる願いを胸に私はすっかり通いなれた病院へと向かった。まずは受付で、これこれこういう事情で件の先生にかかりたいのだと告げた。すると受付の白衣を着た看護士だか医者だかただの事務の人だかわからないおばさんは私の咳に露骨にいやな顔をして黙ってマスクをさし出した後、

“詳しいことは内科でご相談なさってください。”

とだけ言って、“はい次の人”と言った。
少々イライラとしながらも、黙って内科の受付へと赴き、再び先ほど話したことと同じ内容を話すと、
今度はうら若き受付の女性が笑顔で、

“紹介状はありますか?”

と言った。
紹介状?そんなものは見たこともない私は素直に“ありません。”と答えた。
するとその受付の女性、笑顔をふっと吹き消して、

“では無理です。”

とのたまったのだ。
“無理です?”だと??

この言葉に私は切れた。

“無理ですとはなんでぃ、無理ですとは、この野郎!仮にも俺っちはてめぇらからみりゃお客様だぞ。それをたった一言”無理です“で帰ぇらせちまおうってのはいってぇどういう了見だ、ええ?大体そもそも医者ってぇもんはすべからく病で苦しむ人々の痛みをとって差し上げようってぇ尊い仕事じゃねぇんかい、ええ、お嬢さんよう。俺っちぁこの一ヶ月、お医者様を信じて言われたとおりの処方で薬を飲み続けてきたんだ。にもかかわらずだ、症状は一向によくならねぇ。尊い仕事をしてらっしゃるお医者さんを疑うわけじゃねぇが、ちょこっとてめえで調べてみりゃ、この病院にゃその道の専門家がいなさるってぇことがわかった。咳がひどくて会話にもならねえで往生してた俺っちにしてみりゃ、藁にもすがる思いでこうして足を運んできたんでぇ。それをてめぇ、無理ですだあ?もう簡便ならねえ!やい、その専門の医者とやらをここへつれてこい!今すぐだあ!”

普段どんな人にもニコニコと標準語で話す私は、切れると方言が出てしまうのであった。

この場合受付の女性は私にここまで言われる筋合いはないので気の毒ではあったが、私も無理ですと言われてはいそうですかと帰るわけにはいかないのである。咳が止まらず会話ができないと言うのはどんな仕事をする上でもはっきり言って致命的である。約15分の交渉の末、何とか直接その専門医とやらに連絡を取ってもらってその日のうちに見てもらえることになった。

つづく
1回休み その1
咳が止まらない。

帰国して以来体中のあらゆる部位について検査をし、必要とあらば治療してきたわけだが、どういうわけか咳だけが止まらない。

実はこの咳、発症したのは3年以上も前になる。
当時私は雪深い北国に居を構えていた。11月には雪が降り始め、翌年の5月あたりまで、毎日毎日雪が降り続く極寒の地である。3年前の冬、慢性的に栄養と睡眠が足りていなかった私はインフルエンザに感染した。40℃近い熱にうなされる日が何日も続いた。インフルエンザは初体験であった。高熱は私にしばしば悪夢を見せた。こういうとき一人暮らしは辛い。このまま死んでしまうのではないかと何度も思った。志半ばにして遠い異国の地で先立つ不幸を両親にわびながら、同時に八人の女性の名前を唱え一人一人に愛しているとつぶやき、しかる後、下痢のため脱糞した。
そんなこんなでベッドの上をのたうちまわること5日、ようやく熱も下がり件の八人に、久しぶりに電話でもかけてみるべいと携帯を手にしてはじめて気がついたのである。

咳が止まらず電話どころではなかった。何しろ一分に一回は咳き込んでしまうのである。これは由々しき問題であった。
当時私は大学で教鞭をとっており、咳が出て会話が出来ないということは仕事にならないということであった。仕事にならないということはおマンマの食い上げであり、それはつまり経済的理由により強制帰国を意味していた。
インフルエンザですら医者に行かなかった私は、咳のため仕方なく医者に行くことにした。
医者は症状を聞くとすぐに咳止めを出し、マスクをするようにと私に言った。私は処方どおり咳止めを飲んだが、症状はさほどよくならず、緩やかに良くなってはいったものの、その咳はその後なんと3年の間続いていくことにある。

今年に入り、心の病発症とともにずいぶんと良くなっていたはずの咳は再び悪化した。そのまま帰国した私は心の症状の改善と共に咳も収まっていくだろうと高をくくっていたのだが、なぜか咳は止まらなかった。

帰国以来いくつかの病院に通い、胸部レントゲン、血液検査、CTなどさまざまな検査をおこなったが、原因は不明のまま医者は、

“ま、とりあえずお薬だしときますねー。また2週間後に来てくださーい。”

などと言ってお茶を濁すばかりであった。とりあえずとはなんだ、とりあえずとは。私は常に憤慨していた。

不幸にも咳は止まらず月日ばかりが過ぎていった。

そこに登場するのが以前にも出てきた臨床心理士の友人である。彼女は才能豊かであるばかりでなく弱者に心を砕くことの出来る天使のごとき人物なのである。
そんな彼女が私の体を案じ、恐ろしく長いメールと共に送ってくれたのが、日本咳そう研究会に所属する咳の専門医のリストであった。
やはり頼るべきは友人なのであった。
常々思うがなぜ私の友人は無償で私を助けてくれるのであろうか?私は友人達に何にもしてはいないのに、、、頭が下がるばかりである。

話は脱線するがつい先日も友人二人と転地療養していた庵から程近い海へ行った。普通に考えると2分に一回は咳き込み、会話がスムーズにいかない私となんかいっしょにいるのは、すこぶる不快であろうと思う。何しろ両親すら不快な顔をする頻度で私は咳をするのである。にもかかわらずこの友人二人は不快な顔一つせず、とても楽しい休日をありがとう、なんて言ってくれちゃったりするのである。おそらく彼らの中身は天使であろうと思う。

さてそういうわけで頼りになる友人が送ってくれたリストを元に私は専門医に見てもらうために病院へ行ったのである。

つづく
結婚について
働かねば、と思い至るも右往左往しているうちに7月は終わってしまった。そして暑い暑い8月の頭、私の兄が結婚した。そうこうしているうちに慢性的な下痢は治った。

私には兄と妹がいるが、家族みんなが若かった頃、兄弟の仲で一番最初に結婚するのは私だと自分で思っていた。兄妹もそう思っていた。両親だってそう思っていた。親戚のおばちゃんだってそう思っていたんである。
しかしながら人の人生とはやはり予測不可能なものである。妹は数年前に結婚し、兄はあろうことか婿養子に行き、残された私はたいそうな歴史など全然ない一族の苗字を継がなければならない立場に至った。にもかかわらず本人には結婚する気配はこれっぽっちもない。何しろ彼女もいないんである。
この際どうしてこうなったかを考えるのは得策ではない。これから先どうすべきかを考えるべきである。
さしあたって結婚願望はない。だがそれはもしかすると自分のおかれた状況が私にそう思わせているのかもしれない。自分に自信のある男はかっこいい。だが収入のない自分を鑑みるに、自信を持つことなど不可能だ。何にもなくてもなぜか自信満々の人間もいるが、残念ながら私はそこまで豪胆な人間ではなく、正直言って胆力は弱いほうである。
話は少しそれるが(またか、というツッコミはなしの方向で)、”収入”とは必ずしも”仕事”とは直結しない。仕事がなくったって収入さえあれば結婚は出来るのである。極端な例で言えば故ダイアナ妃の最後の恋人ドティ・アルファイド氏は仕事はしていなかったが月収1000万円であったといわれる。仕事をしてなくたってそれぐらいの収入があればダイアナ妃とだって恋人同士になれるのが現実世界の理である。結果二人とも不幸な事故により亡くなってしまったのでそれが幸せだったかどうかは定かではないが。
そんな夢のような生活をするごく一部の人間はともかく、私には不労収入の道はほぼないのでここは堅実に現実に向き合うべきである。

なんだかまた何が言いたかったのかわからなくなってきた。
つまり現在の私の”結婚願望”の低さは、私の現状を如実に繁栄しているのではないかと私は考えている。

元来女性は好きである。いやもっと正直に言えば好きで好きでたまらんのである。女性は美しい。これは私の特技であるが、私はあらゆる女性の、少なくとも一箇所以上は美しい部分を探し出すことが出来る。それは外見上のことかもしれないし、心の内のありようであるかもしれないし、その人のさりげない所作振る舞いであるかもしれない。
女性の美しさはしばしば花に例えられる。私はバラのように自らの外見の美しさを誇るように咲き誇る花を愛でる一方でスズランのようにそよ風に吹かれて恥ずかしそうににユラユラと小さく揺れる可憐な花も好きである。カサブランカのように肉感的な魅力の花に魅かれるときもあれば、カラのように過度の装飾を良しとせず凛とした佇まいにも魅かれる。

つまりなんでもいいんじゃないか、とは言わないで欲しい。

それら美しい花を常に美しく保つのは男の役割であると私は思うのだ。愛情を持って手入れをすると花はより美しく咲く。適切な土で育てれば茎や葉がしっかりしてくる。肥料を適度にやることで花は色艶がよくなるんである。“お前は綺麗だな”と語りかけながら水をやると、花は本当に綺麗になるのである。女性だってそうなのである。
言いたいことがおわかりいただけたと思う。どの手入れの仕方が一番大事であるというのはない。精神的にも物質的にも愛情をそそがなければならない。
自分の彼女よりも他の女のほうが可愛いと勘違いして浮気をするのは、自らの怠慢の結果であると知るべきである。

無論逆もしかりである。

話がそれているようで実はそれていない。

花を手入れをするには金と時間と愛情が必要なのである。どの要素も等しく必要である。時間はある。愛情もある。しかしながら現状の私は絶望的に金がない。愛する花を美しく保つことが出来ない私には結婚する資格どころか彼女を持つ資格などねーんである。

はやい話がそういう意味でもはやく働かねば、ということである。


注:本日は非常に偏った意見を述べてしまったようだが、誤解のないように説明を加えておく。人の美しさとは外見、内面双方を指す。ならびに花を美しく保つ努力の議論はあくまでその花が自ら美しくあらんとたゆまぬ努力を怠っていないことを前提としている。

就職活動
さて、そんなわけで前回まででざっとこうなった経緯を話してきた。ここからは本ブログをはじめた7月の終わりから本日までの話。

健康になった私はスゴロク盤上の最初のマスに進んだと言ってよいであろうと思う。健康になったからには仕事をしなければいけない。なぜならば仕事をしなければ金がないのである。現代社会においては最低限の金がなければ餓えて死ぬのである。
不思議なことに鬱病であったときの私は空腹なんぞこれっぽっちも感じなかったのに、元気になってみると腹が減るのである。これぞまさに生きている証拠といえよう。

ではどのようなに仕事をはじめるか。

当初の私にははっきり言って何一つ糸口は見つからなかった。齢30にもなる健康な男子が何を言ってやがる、とお考えになるかもしれない。抗弁する気はさらさらない。しかしながら何せ私は就職活動というものをこの歳になるまでしたことがなかったのである。

かろうじて4年で日本の大学を卒業して後、フリーター時代を、わずか1年を経ずして私は太平洋を渡った。以後約7年半を丸々学問の探求に捧げてしまったのである。まだ日本にいた頃、バイトはたしかに色々やった。しかしその多くは履歴書や面接を必要としないガテン系のバイトであった。そこでは学歴や語学力などはクソの役にも立たず、唯腕っ節と、体力だけが物を言う世界であった。これがまた性に合った。

話を戻す

私が7年半もの長い時間を捧げてしまった学問とは、本来食物に当てるべき金を書物に換え、友人と語らうべき時間をそれら書物の精読に費やし、異性を愛でる時間やその愛する異性と共に安らぎを得るべき時間を、慢性的に下痢となった我が身の排便に費やす。そうして倦まず弛まず日々の研鑽を怠ることなく真摯に真理を追究するものなのである。

はやい話が学問の追及とは自慰であり、自虐である。

自慰と自虐をあきもせず7年半という歳月せっせと続けた結果、私はめでたくノイローゼとなった。当然である。まこと非生産的な日々であったと言わざるを得ない。


私が硬くかび臭い書物に身をうずめて眠っている時、同世代の友人は柔らかくいいニオイのする女性とまどろんでいたのである。私が冷たく乾いた顕微鏡を覗き込んでいる時、同世代の友人は女性の柔らかく濡れた秘所を覗き込んでいたに違いないんである。私が腱鞘炎になるほど論文を書いている時、同世代の友人は腱鞘炎になるほど女性の秘$&%$&%、、、、
これ以上は言うまい。
ただし後悔はない。苦しく、そして失うものも多かったが、充実した日々であったのは間違いない。問題は私が学問の難しさとそして自分の能力を見誤ったということだけでった。

彼を知り己を知れば百戦殆からず

とはよく言ったものである。


常に話が脱線するのは私の悪い癖である。

つまりは、言い訳になってしまうが、そうやって長い年月、学問に身を捧げちまった結果、就職活動どころか、まともなバイトの面接すら数えるほどしか経験がないのである。さらには30歳、資格等一切なしの状況。

口で言うほど簡単な状況ではないことがやっと分かってきた7月の終わりであった。


本日のタイトルに沿った文章はたったの4行になってしまった、、、、

こうなった経緯について その3
さて、その2で脱線した“経緯”に話しを戻す。

その1でも話したとおり、私は6月は心身の回復に努め、7月に入ってついに、“外出”を試みるに至った。“外出”には多くの勇気を要した。なぜならば帰国前約4ヶ月にわたって私はずっと家に引きこもっていたのである。わずかな外出といえば治療のためカウンセラーに会いに行くときだけであった。その際わずかな食糧を買っていたのだが、精神が衰弱していたのと同時に極度の貧乏で食事はほとんど取らず最初の2ヶ月でで体重は10キロ以上減ってしまった。

実はそうなる以前に日本に住む臨床心理士の友人に、

“そのままそこにいて、動けなくなって自分ひとりで帰ってこれなくなってしまう前に一度帰ってきたほうがいいんじゃない?”

という忠告を受けていた。今考えればその友人はまさにぴたりと私の状態を見抜いていたに違いない。意地を張って忠告を聞かなかった私はその数ヵ月後その友人の予言どおり一人では動けなくなり、親にSOSを発信し、海を越えて迎えに来てもらったのであった。

話は前後する。

そういうわけで私の外出は家の周りのお散歩から始まった。漁村ではなんともなかった散歩も東京の実家の周りの散歩は私にプレッシャーを与えた。知り合いに会ってしまうかもしれないという今日からであった。幸いにも誰にも会わずその後新宿や渋谷のような大都会の人ごみに行ったりして徐々に人に慣れていった。7月の半ばには友人に会いに行くことをはじめ、今や人に会うことはなんともなくなったが、なぜか人に会うと激しく咳き込んでしまう。これも前出の臨床心理士の友人に言わせれば心因性なのだそうだ。ならばどうしたら直るのだろうか?今だ大勢の友人といっぺんに会うことを試してはいないが、おそらく咳き込みながらもパニックに陥ることはないだろうと思う。

いろんなことをいっぺんに書くのは難しい。

減ってしまった体重は7月の半ばにはすっかり元に戻り、なおかつ漁村暮らし中に真っ黒に日焼けしたために、現在の見た目は普通の人よりよっぽど健康的に見える。実際体は健康なのであろうと思う。

この辺まででとりあえずこのブログをはじめた7月の終わりに追いついたと思う。
回復したからには、次のマスに踏み出さねばならない。いつまでもスタートのマスの中でウロウロしていてはゲームは始まらないんである。
こうなった経緯について その2
7月初旬、本人も知らぬ間に以前のスゴロクから脱落し、新しい、それも見知らぬスゴロクのボードの上に自分が置かれているのだということに私はやっと気がついたのであった。

以前のスゴロクと今回のスゴロクでは根本的に大きな違いがある。

人生一寸先は闇、とはよく言ったもので、現実世界では明日何が起こるかなんて誰にも分からないんである。とはいえ人は明日、来年、10年後の計画や目標をおぼろげながら立て、ある程度それに沿った人生を歩んでいくものである。俺は私は計画なんか立てずに出たとこ勝負で毎日生きているぜ、という方もおられると思うが、例えば今1億円持っていたとして、明日のことなんてどうせわかんねーんだからと今日中に全部使ってしまうという江戸っ子気質丸出しの人はあまりいないのではないかと思う。

一般に“夢”と呼ばれるものを持っている人々はなおさらである。
夢に向かうとは漠然とした大きな目標にがむしゃらに突っ走っていくことではない。
おぼろげになりがちな10年後の大きな目標の達成のための調査に始まる綿密で詳細な計画力が必要なのである。計画性なく夢を実現できるのは本当の天才や英雄だけであろう。作家で言えば川端康成のようなおそらく書き始めには結末が全く見えていないような話なのにノーベル文学賞をとるような人はおそらく文壇にもそう多くはおるまいと思う。優秀な作家の多くは、例えば三島由紀夫のように計算された文章構成の元に物語の中盤では読者を翻弄させる多くの伏線を登場させながら結末には完璧な予定調和を果たす、そういう手法の良作のほうが天才肌の作風よりずっと多いように感じる。

だいぶ脱線してしまったが、つまり私の以前のスゴロクもある程度先を見据えながら進んでいたのだ。予定外のマスに進んでしまうこともままあったが、全体の大きな流れを乱すようなものではなかったということだ。
まさか自分が三島由紀夫のような才能を持っていたなどとは言わない。自らの非才はもとより承知している。しかし少なくとも自分なりに綿密な調査、それに基づく計画は立てていたつもりである。

長々と書いてしまって何が言いたいのか分からなくなってしまったので、簡潔にまとめると、つまり以前私が進んでいたスゴロクは、今後多少のマスの変更があったとしても、100個先のマスに変化はなく、1000個先のゴールにもそう大きな変化はないであろうということを知りながら進んでいたという事実に対し、現在私が図らずも乗っかっているスゴロクボードに関し、私は何の知識もないどころか、一つ先のマスで一体何が起こるのか私自身さっぱり分からないということである。

しかしこれは悪いことばかりではない。この事実を好意的に解釈すれば、以前のスゴロクでは私が進むことの出来るルートはそう多くはなく、たいていの場合一本道であった。なんとなれば自分でゴールを決定してしまっていたからである。しかしながら現在はゴールなんぞさっぱり見えずいわんやその道程をやなのである。つまり私が進むことの出来る道筋は今のところ全方位360度に向かって伸びているのである。

いささか”好意的”を拡大解釈しすぎだが、絶望に身をやつすよりはましであろうと思うが、読者のみなさんはどう思われるであろうか?


今回はいささか理屈っぽくなってしまったので次回はちゃんと7月初旬からの“こうなった経緯について”についての続きをちゃんと書きます。
こうなった経緯について その1
さて、現在社会とのつながりを持たぬ状態である私であるが、ここにいたるまでにはそれなりの理由がある。しかしながらこうなった経緯についてはいまだ自分の中でも消化しきれていない部分があり、詳細を話すことははばかられるので、ここはひとつざっくりと。

現在、つまり2007年8月上旬、私はニートである。しかしながら少なくとも2007年のはじめまでは20代前半に抱いた夢を追いかける一人の夢追人であった。
夢の達成というものはえてして自らの実力以上の努力や能力を必要とするものである。私はそれまでの7年間非才なる我が身にあえて目をつぶり研鑽を重ねてきた。いやそのつもりであった。
実力以上の努力や能力を続けるにはやはり並外れた精神力が必要となる。それは初志を貫徹するための意志力とでも言うものかもしれない。私にはその強い精神力に弱点を抱えていた。7年間で精神の中に鬱積した歪は2007年についに表面化し、私はめでたくうつ病を患った。
日々悪化する病状との戦いはあえて書くまい。心と身体は常に密接につながっており、心の病は当然のごとく体を蝕み、ついに2ヶ月前、私は廃人のようになって実家へと帰ることになったのである。
帰ってからの約一ヶ月、私は千葉のとある漁村で日々を過ごした。東京では主に病院に通った。漁村での日々は私の爛れた心と身体を癒すのには最適であった。

日の出とともに起床し、日中は野良仕事に汗を流し、太陽をいっぱいに浴びて日の入りとともに床に就く。
単純だが、おそらくこれ以上の治療法は無かったに違いない。7月初旬には身体の方はほとんど回復したように思える。とまらぬ咳にはいまだ悩まされているが、それが治るのも時間の問題であると思う。

7月の頭より私は少しづつであるが両親以外の人間と会う努力をするようになった。いまだに大勢の人間にいっぺんに会う勇気はわかないが、個人であればパニックに陥ることも無く会えるようになった。

この時まさに、私は自分が新しいスゴロクの振り出しに倒れていたのだと知ったのである。

以前のスゴロクが崩壊し、もはやこれまでと倒れて何も見ようとはしなかった私が、ふと顔を上げてみると見知らぬスゴロクのスタート地点にいつの間にか置かれていたのだ。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。